top of page

言葉を捨てるために言葉を突き詰める

問いから始まる旅


「色」という概念が存在しない世界で、「赤」をどう伝えるか。

そんな問いかけから始まった会話は、いつの間にか私たちを、思いがけない場所へ連れて行った。


最初はこう考えた。

太陽の暖かさ、情熱の高ぶり、心臓の鼓動の音、血液、食べ物の甘さ…

けれど気がつくと、それは「赤ってこういうもの」という決めつけを、別の言葉や感覚に置き換えただけだった。


ふと思う。

私たちは、言葉を作りすぎたのかもしれない。

生きていくために必要だった「分ける」という行為が、いつしか世界を細かく切り刻む刃のようになってしまった。

これは赤、これは青。これは美しい、これは醜い。これは自分、これは他人。

そんなふうに、ラベルを貼って安心しながら、世界を整理し、理解したつもりになっていた。


でも今、その小さな箱の中で、どこか息苦しさを感じている。


ree

世界に貼られたラベル


言葉は、ただの名前ではない。

それは、ものごとを分類するためのラベルであり、世界の見え方そのものをかたちづくる「概念」という枠組みでもある。

言葉を手にしたことで、私たちは世界の輪郭を手に入れた。

けれど同時に、それは見えない境界線となって、私たちの視野を区切ってもいたのかもしれない。


分けない世界の輪郭


言葉のない世界って、どんなだろう。

たぶん、赤ちゃんが見ている世界に近いのかもしれない。

なにも名前をつけず、分けることもせず、ただそのまま、全部をまるごと受け取っている。

境界線のない、溶け合った世界。


でも、もしかすると、そういう“分けない”世界のもっと深い場所には、悟りを開いた人が見る景色のようなものがあるのかもしれない。


赤ちゃんは、そもそも言葉も概念も知らないから、世界を分けない。

一方で、悟った人は、それらをすべて知り尽くした上で、あえて分けない。


一見似ているようで、そこには大きな違いがある。一度言葉を覚え、世界を細かく切り分け、そしてその限界に何度もぶつかった末に、もう一度たどり着く“分けない”という場所。


だからこそ、言葉を極めた人は、言葉を超えようとするのかもしれない。

禅僧が公案に取り組んだり、詩人が言葉の限界に挑んだり、哲学者が思考の迷路をあえて歩き続けたりするのも、言葉の果てに、言葉を超えたなにかが立ち現れることを、どこかで知っているからかもしれない。


分けることのない世界には、たぶん問いかけすら存在しない。

「知る私」と「知られるもの」が分かれて初めて、問いが生まれるから。


でも人間は問いを作り出し、その問いを解こうとして、満足を得る。

その問いを立てるという行為自体が、実はすでに世界を切り分ける作業だったとしたら──

私たちは無意識のうちに、またひとつラベルを増やしてしまっているのかもしれない。


ree

堂々巡りの中で出会うもの


今この文章を書きながらも、私はなにか「良いこと」を伝えようとしている。

読んでくれる人に「なるほど」と思ってもらいたがっている。

分別の世界から抜け出そうとしながら、また新しい分別を作っている。


言葉で言葉の限界を語る。

概念で概念を問い直す。

この不思議な堂々巡りの中に、私たちは生きている。


でもこの矛盾をそのまま受け入れたとき、

なにかが変わる気がする。

正解を見つけようとするのをやめたとき、

探していたものとはちがう「なにか」が、もうここにあったことに気づく。


面白いことに、悟りの境地って、案外赤ちゃんの世界と似ているのかもしれない。

ただ、そこに至るまでの道のりがまったく違うだけ。

螺旋階段を上って、同じ場所の上の階に立つように。

知らなかった分けない世界から、知り尽くした分けない世界へ。


私たちは、矛盾を抱えて生きている。

言葉を捨てたくて言葉を突き詰め、

分別を超えたくて、また新しい枠組みを作ってしまう。

でも、もしかするとこの矛盾そのものが、私たちの人間らしさなのかもしれない。


悟りとは、この矛盾を超えることではなく、

その矛盾ごと、自分をまるごと受け入れることなのかもしれない。


言葉を重ねながら、言葉の向こうを探し続ける。

この、一見無駄にも思える営みのなかで、私たちは何を見つけるのだろうか。


ree

もうそこにあった何か


それは答えじゃないかもしれない。問いでもないかもしれない。

ただ、言葉が生まれる前から、世界が分けられる前から、ずっとそこにあった「なにか」。


赤ちゃんが自然に知っていて、

悟った人がもう一度出会う、

その「なにか」なのかもしれない。

コメント


bottom of page