
言葉を捨てるために言葉を突き詰める
- coolmintjam2
- 9月24日
- 読了時間: 4分
問いから始まる旅
「色」という概念が存在しない世界で、「赤」をどう伝えるか。
そんな問いかけから始まった会話は、いつの間にか私たちを、思いがけない場所へ連れて行った。
最初はこう考えた。
太陽の暖かさ、情熱の高ぶり、心臓の鼓動の音、血液、食べ物の甘さ…
けれど気がつくと、それは「赤ってこういうもの」という決めつけを、別の言葉や感覚に置き換えただけだった。
ふと思う。
私たちは、言葉を作りすぎたのかもしれない。
生きていくために必要だった「分ける」という行為が、いつしか世界を細かく切り刻む刃のようになってしまった。
これは赤、これは青。これは美しい、これは醜い。これは自分、これは他人。
そんなふうに、ラベルを貼って安心しながら、世界を整理し、理解したつもりになっていた。
でも今、その小さな箱の中で、どこか息苦しさを感じている。

世界に貼られたラベル
言葉は、ただの名前ではない。
それは、ものごとを分類するためのラベルであり、世界の見え方そのものをかたちづくる「概念」という枠組みでもある。
言葉を手にしたことで、私たちは世界の輪郭を手に入れた。
けれど同時に、それは見えない境界線となって、私たちの視野を区切ってもいたのかもしれない。
分けない世界の輪郭
言葉のない世界って、どんなだろう。
たぶん、赤ちゃんが見ている世界に近いのかもしれない。
なにも名前をつけず、分けることもせず、ただそのまま、全部をまるごと受け取っている。
境界線のない、溶け合った世界。
でも、もしかすると、そういう“分けない”世界のもっと深い場所には、悟りを開いた人が見る景色のようなものがあるのかもしれない。
赤ちゃんは、そもそも言葉も概念も知らないから、世界を分けない。
一方で、悟った人は、それらをすべて知り尽くした上で、あえて分けない。
一見似ているようで、そこには大きな違いがある。一度言葉を覚え、世界を細かく切り分け、そしてその限界に何度もぶつかった末に、もう一度たどり着く“分けない”という場所。
だからこそ、言葉を極めた人は、言葉を超えようとするのかもしれない。
禅僧が公案に取り組んだり、詩人が言葉の限界に挑んだり、哲学者が思考の迷路をあえて歩き続けたりするのも、言葉の果てに、言葉を超えたなにかが立ち現れることを、どこかで知っているからかもしれない。
分けることのない世界には、たぶん問いかけすら存在しない。
「知る私」と「知られるもの」が分かれて初めて、問いが生まれるから。
でも人間は問いを作り出し、その問いを解こうとして、満足を得る。
その問いを立てるという行為自体が、実はすでに世界を切り分ける作業だったとしたら──
私たちは無意識のうちに、またひとつラベルを増やしてしまっているのかもしれない。

堂々巡りの中で出会うもの
今この文章を書きながらも、私はなにか「良いこと」を伝えようとしている。
読んでくれる人に「なるほど」と思ってもらいたがっている。
分別の世界から抜け出そうとしながら、また新しい分別を作っている。
言葉で言葉の限界を語る。
概念で概念を問い直す。
この不思議な堂々巡りの中に、私たちは生きている。
でもこの矛盾をそのまま受け入れたとき、
なにかが変わる気がする。
正解を見つけようとするのをやめたとき、
探していたものとはちがう「なにか」が、もうここにあったことに気づく。
面白いことに、悟りの境地って、案外赤ちゃんの世界と似ているのかもしれない。
ただ、そこに至るまでの道のりがまったく違うだけ。
螺旋階段を上って、同じ場所の上の階に立つように。
知らなかった分けない世界から、知り尽くした分けない世界へ。
私たちは、矛盾を抱えて生きている。
言葉を捨てたくて言葉を突き詰め、
分別を超えたくて、また新しい枠組みを作ってしまう。
でも、もしかするとこの矛盾そのものが、私たちの人間らしさなのかもしれない。
悟りとは、この矛盾を超えることではなく、
その矛盾ごと、自分をまるごと受け入れることなのかもしれない。
言葉を重ねながら、言葉の向こうを探し続ける。
この、一見無駄にも思える営みのなかで、私たちは何を見つけるのだろうか。

もうそこにあった何か
それは答えじゃないかもしれない。問いでもないかもしれない。
ただ、言葉が生まれる前から、世界が分けられる前から、ずっとそこにあった「なにか」。
赤ちゃんが自然に知っていて、
悟った人がもう一度出会う、
その「なにか」なのかもしれない。




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