2歳の自分に会いにいく
- coolmintjam2
- 6月28日
- 読了時間: 3分
更新日:3 日前
おそらく、わたしの人生の転機となる大切な何かは、このときに起きていた。3ヶ月間の田舎生活で。きっと人生で一番自由に、制限なく、たくさんの愛を感じてのびのびと過ごしていたのだろう。
母の入院と妹の誕生。家族にとって大きな変化の時期に、わたしは祖父母の元に預けられた。2歳の記憶は曖昧だけれど、身体は覚えている。髪質まで変わるほどの、深いレベルでの変化を。両親はわたしの容姿の変貌にかなり驚いたそうだ。
築100年を超える古い家には、天照大神の掛け軸があり、敷地には諏訪大社の小さな鳥居があった。当時のわたしは、それが何なのかさえ知らなかったし、その後も現実主義者として生きてきた長い間、神様という存在にも全く興味を持てずにいた。でも、自然豊かなその土地で、たくさんの大人からの無償の愛に包まれて、制約のない表現の中で、密度の濃い時間を過ごしていたのは確かだ。
そして帰宅の日。祖父の車の中で「お家に帰ったら、私のお布団がない」と言ったという話が、家族の笑い話として語り継がれている。
大人になった今、その言葉の意味がようやくわかる。
物理的な布団のことではなかった。あの安心感、あの愛に包まれた感覚、ありのままの自分でいられる居場所——それがもうないのかもしれないという、2歳なりの不安だったのだ。
その後のわたしは、優等生として生きることを選んだ。我慢を重ね、やりたくないこともやらされて。違和感を感じるたび、本来の明るさや感性、ポジティブさは抑え込まれていった。
「〜しなければならない」「〜であるべき」が増えていく。成功か失敗か、正しいか間違いか——二元的な価値観にどんどん染まって、たくさんの生きづらさを抱えて大人になった。あの田舎で体験した自由で生命力にあふれた感覚は、少しずつ奥に仕舞い込まれた。
43歳の今、ようやく気づいた。
わたしはずっと「私のお布団」を探していたのだということに。
他人からのジャッジメントへの抵抗も、質問されることへの身構えも、存在そのものが受け入れられる世界への憧れも——すべて、あの時の安心感を求める2歳の子からの叫びだった。
今日、その子に会いに行った。
長い間、誰かに気づいてもらえるのを待っていた小さな自分に。「大丈夫、ちゃんと安心できる場所も愛もあるよ」と伝えて、抱きしめてあげた。その子はホッとした表情を見せてくれた。
涙が止まらなかった。押し込めていたものが、ようやく光の下に出てこられたのだから。

あの田舎の土地は、単なる思い出の場所ではなかった。わたしの魂の原点で、本来の自分らしさを思い出させてくれる聖地だった。
2歳のわたしが体験した「無条件に愛される喜び」は、今もわたしの中に確かに生きている。
もう一人で頑張らなくていい。図に乗ってもいい。なにも達成していなくてもいい。素直に喜びを表現してもいい。感性豊かに、自由に創作してもいい。「〜しなければならない」から解放されて、自分らしく生きてもいい。
2歳の子が長い間伝えたかった美しいものを、これからは思う存分形にしていこう。
写真を撮るとき、文章を綴るとき、絵を描くとき——あの子の自由で創造的なエネルギーと一緒に。
そして今度は、同じように「自分のお布団」を探している人たちに、安心できる場所があることを伝えていこう。
あの田舎の家で、いつかリトリートを開くかもしれない。神聖なエネルギーに満ちた場所で、参加者が本来の自分らしさを取り戻せるような時間を。
2歳のわたしが教えてくれた。人生で一番大切なのは、ありのままの自分でいられる「お布団」を持つことなのだと。
今、わたしはその布団を、自分の手で編んでいる。
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