
器と料理の対話──魯山人の美意識が息づく界 加賀の旅
- coolmintjam2
- 9月21日
- 読了時間: 5分
更新日:9月23日
「当意即妙の連続でなければ真の芸術ではない─」
その言葉が、界 加賀のトラベルライブラリーで「いろは屏風」を前にしたとき、ふと脳裏をよぎった。酔筆とも言われるこの「未完」の書が、400年を重ねた白銀屋の建物の奥で、静謐に息づいている。

起源を紡ぐ場所──白銀屋と魯山人の縁
界 加賀──その前身である白銀屋は、寛永元年(1624年)の創業以来、前田家の久姫の定宿として知られ、また魯山人が滞在した場所でもある。ここには魯山人直筆の「白銀屋」の看板や、「白掛鉄色絵雪笹小皿」など、彼の足跡を生き生きと伝える作品が保存されている。

魯山人が九谷焼と出会い、陶芸の世界に心を惹かれていったのも、須田菁華との交流によってであった。この地で培われた「器は料理の着物」という思想は、美と実用を一体と見る視線を、今日の界 加賀のもてなしへと静かに繋げている。
器と料理が奏でる共鳴──もてなしの総合芸術
夕食の膳が運ばれてきた瞬間、400年の時を超えた邂逅が始まった。

まずはガラスと九谷焼が組合わされた九谷和グラスの美しさに魅了された。次々に運ばれてくる北陸海宝会席の美しい盛り付け。
季節の食材が盛られた色絵の小皿は、装飾性と実用性が見事に調和し、料理の奥行きを深める。これは魯山人が追求した「用の美」の表れではないだろうか。

界 加賀では、器そのものを単なる道具ではなく、宝物として大切に扱う姿勢がはっきりしている。九谷焼へ敬意を払い、手仕事の温もりを残した器を選ぶ眼差し。器と料理が互いに映し合い、響き合いながら、一皿一皿が独立した芸術品として全体を調和する。こうして眼にも舌にも「当意即妙」の瞬間が重なっていく。
金継ぎの体験──侘び寂びと「用の美」の交差点
翌朝、小さな金継ぎ工房で筆を取り、割れた器に塗り固められた漆の上に金粉を蒔いていく。ここで感じたのは、侘び寂びの「不完全性の美」と、魯山人の「用の美」が重なりつつも、異なるベクトルを持つということ。

侘び寂びは欠けや傷そのものを肯定し、新たな美しさに変える。一方で、魯山人の思想では器は主役ではなく、料理を美しく見せる道具である。どんなに装飾があっても、それが料理を引き立てるためであり、器自身が勝手には主張しない。

金継ぎされた器を手にして思う。傷があるからこそ、その器との関係が深まり、使う人の記憶が刻まれて美しくなるのだと。傷は物語であり、歴史なのだ。界 加賀でこの体験が可能であることは、ただの伝統保存ではない。「もの」としての器への祈りであり、使われ続けることで命を紡ぐ文化そのものだ。
生活全体が美になる時──空間・時間・精神の調和
界 加賀で過ごす1泊2日は、魯山人が理想とした「生活そのものが芸術である」という境地への旅だった。

花瓶に生けられた花も、人工に切り取られて器に収められることで、自然が自然以上の美へと変じる。自然美礼賛ではなく、人の手が介在することで深まる美しさ。

温泉に浸かりながら夜空を見上げ、雨露に濡れる自然美と人工美が重なる庭を眺める。あらゆる要素が、その時、その場所、その自分にとっての最適な美を奏でる。朝食で、昨夜とはまた違う九谷焼の器で味わう食事。器が異なるだけで、同じ食材が別の物語を紡ぐ。

界 加賀のもてなしは、一律ではない。季節や客の様子に応じて、こまやかな調整が行われる。それはまさに「当意即妙の連続」──瞬間瞬間に最良の形を選び取る美学の実践のような気がした。
継承と発展──器を愛し、生きるということ
界 加賀で体験した「器の循環」は、魯山人美学の現代的発展のひとつの形だ。使用された器が点検され、修復を経て再び使われる。その循環は単なる環境配慮を超えて、器と使い手との間に新たな物語を紡ぐ営みである。

「器は使われてこそ美しい」──界 加賀ではそれを「器は愛され続けてこそ美しくなる」へと受け継いでいる。傷や欠けもまた、その器の個性とのり、金継ぎを介して新たな命を得る。

「器は宝物」という美意識。ひとつひとつに個性があり、使い込むほどに味わいが増す。使われることで育まれ、再生されることが、その器の本当の輝きなのではないだろうか。
統合としての美学──生き方の提案
魯山人の魅力は、その多才さにある。陶芸家、書家、美食家──多くの顔を持ちながら、すべてが「用の美」という一本の軸で貫かれていた。

界 加賀のトラベルライブラリーで「いろは屏風」を静かに見ながら思う。彼の書、彼の器、彼の料理。それらはすべて同じ美学から生まれている。生活そのものを芸術にするという理念が、壮大でありながらも生活の隅々に息づいている。衣食住、そして心、その全てで自己表現をしたい─私が求めているのもこういうことなのだろうか。

専門性が賞賛される現代にあって、魯山人は異なる道を選んだ。書を学ぶことでその筆遣いが器の装飾に影響を与え、料理への感性が盛り付けや器選びの基準となる。彼の表現手段はいくつもあるが、それらはばらばらではなく、美意識のもとに統合されている。

金継ぎ工房で筆を握りつつ、私は自分自身の生き方について考えていた。専門性を極めることも美しい。しかし、それ以上に、一つの明確な軸を持ちながら、多様な表現を身につけることが、いまを豊かに生きる鍵ではないか。

「器は料理の着物」から始まった旅は、「人生は美の着物」という新たな境地へと導かれる。それは魯山人が追求した美意識を現代に甦らせ、未来へと繋ぐ生きた美学の提案に他ならない。


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