自分の声が聞こえなくなる前に

北欧から帰ってきて、改めて思う。
東京は情報が多い。

駅では広告が溢れ
車内ではモニターが点滅し、
ひっきりなしにアナウンスが流れる。
街を歩けば看板が目に飛び込んでくる。

次々と更新されるニュース。
新しい店。
流行の商品。
おすすめの場所。

親切なのだと思う。
けれど、ふと息苦しくなることがある。

そんなことを考えていたら、以前、奄美大島から帰ってきた時にも同じことを思ったのを思い出した。宮古島でもそうだった。

島にいるときは気づかない。
帰ってきて初めて、東京の音量の大きさに驚くのだ。

もちろん刺激は楽しい。
ただ、東京はここが「消費社会」であることをまざまざと見せつける。

新しいものに出会うことは好きだし、ショッピングも、街歩きも好きだ。
けれど、その刺激が多すぎると、自分の声が聞こえなくなる。自分と向き合おうとするとき、それらがノイズになってしまう。

私は何が好きなんだろう。
私は本当はどうしたいんだろう。

そんな小さな問いは、案外か細い声でしか話さない。
広告のように大音量ではやって来ない。

旅先の朝、
窓から差し込む光を見ている時。
カフェでコーヒーを飲みながら、ぼんやりスケッチをしている時。
海を眺めながら歩いている時。

そんな時間にだけ、ようやく聞こえてくる。

島が好きなのは、自然があるからだけではないのかもしれない。

広告が少ない。
アナウンスも少ない。
流行よりも、季節の移ろいや天気の話が暮らしの中心にある。

そこには、簡単には変わらないものがある。
北欧にも同じような感覚があった。

長い冬を越えるための照明。
窓から入るわずかな光を大切にする暮らし。
マーケットに並ぶ野菜やパン。

派手なものではない。
けれど、その土地が何を大切にしているのかが見える。
根っこが見える。

私は旅先で観光名所を見ているつもりで、その実、その土地の根っこを探しているのかもしれない。
そう考えると、私が撮る写真にも少し説明がつく。

窓。
ドア。
光と影。
使い込まれた椅子。
マーケットの野菜。

賑わいの中心ではなく、その場所を支えている静かな骨格。

何を撮るかよりも、何を撮らないか。
何を描くかよりも、何を描かないか。
最近そんなことを考えるようになった。

情報が溢れる時代だからこそ、足し算ではなく引き算に惹かれるのかもしれない。

静かな場所へ行くことだけが答えではない。

本当に欲しいのは、どこにいても自分の声が聞こえること。

旅はそのための特別な時間であり、同時に日常へ持ち帰るための練習でもある。

だから私は、ときどき静かな場所へ向かう。
自分の声が聞こえなくなる前に。

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