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何も起きなかった、あの夕暮れ ──観光と暮らしの隙間で

待っていた人の背中


ゆんたくは、開催されなかった。

本当は体験するはずだった、沖縄らしい暮らしの文化。

けれど、私はその集落の空気に、不思議と包まれていた。


散策の途中、ぽつんと座っていたおじぃの姿があった。声も交わさず、ただ風景の一部のように佇むその背中。缶ビールを片手に、静かな夕暮れをじっと待っているようだった。

その場に流れるゆっくりとした時間。


しばらくして、自転車で帰っていくおじぃを見かけた。


「あのおじぃ、ゆんたくを待ってたんだよ」


集落を案内してくれた地元の人が、ぽつりと教えてくれた。


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誰に言われるでもなく、ただそこにある時間。

あの空気が、とてもよかった。


ピンクの電話と、チョークの跡


観光として何か”イベント”が起こったわけではない。けれど、その静かな夕暮れが、忘れられない。


沖縄で、“懐かしさ”を感じるとは思わなかった。

それはたぶん、私がかつて子どもの頃に見た風景よりも、もっと昔の田舎の風景と重なったから。

具体的な記憶ではなく、肌で覚えていた空気の質感。


なんとなく知っている、というノスタルジー。

子供たちがケンケンパをする姿。

道路に描かれたチョークの跡。

乗り捨てられた三輪車。


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共同売店にはピンクのダイヤル式電話。

その横には、ずらりと書かれたご近所さんの電話番号。

ここではまだこうして繋がっている。


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不用品のリサイクルコーナー。

託児所がわりのスペース。

子どもの絵が貼られた壁。


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循環と助け合いの精神が、ここではまだ息づいていた。

夕方の音、家の奥から聞こえるテレビの音、少し湿った匂い。

地元の人と一緒でなければ、見過ごしてしまいそうな光景だった。

でもその気配が、今も胸に残っている。


ピザトーストの朝


民泊の古民家は、沖縄の家ではなかった。

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赤瓦を載せた外観。私は「沖縄の古民家だ」と思った。

けれど、中に入ると、囲炉裏があった。

南九州から移築されたというその家。

囲炉裏テーブルで、おじぃとおばぁと夕食を囲む。


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それは”郷土料理のレクチャー”ではなく、ただ日々の夕飯を共にする時間だった。

キッチンは最新のIH。


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朝ごはんはピザトーストとカップスープにインスタントコーヒー。

農家民泊という言葉から想像していた「沖縄らしい暮らし」とは、違っていた。

でも、それはそれで、よかった。

その肩すかしのような感覚が、「演出されていない暮らし」に触れることだった気がする。


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演出されない、ということ


「観光のための暮らし」にならないために


「体験」としての暮らしは、整えられ、見せるために加工されがちだ。

でも、そこに生きている人にとっては、それが”日常”であって、観光客の期待に応えるために再現されるものではない。


もし、ゆんたくがその夕暮れ時に行われていたら、私はもっと多くの人と話し、交流を体験したかもしれない。


でも、その「何も起きなかった」時間を通して、私は観光と暮らしの間にある微妙な境界線を感じた。


予定通りにいかないこと。誰も来ないこと。ピザトーストな朝。

そこにこそ、飾らないその土地の姿がにじんでいた。



「混ざる」とは、演じさせないこと


地域と観光客の”共存”を考えるとき、「暮らしのリアルを、リアルのまま受け取れる旅人が増えること」が大切なのかもしれないと思う。


すべてを”体験プログラム”として提供するのではなく、その日の気分や、集まり具合や、誰かの都合にゆらぐこともある——

そんな時間の中に静かに身を置くこと。


観光の中に暮らしを持ち込むのではなく、

暮らしの隙に、ほんの少し滞在させてもらうような旅のかたち。


それは、観光の新しい可能性であると同時に、

旅人である私たちに求められる”受け取り方”の変化かもしれない。


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記憶に残ったのは、「何も起きなかった」時間


あの夕暮れ時、ゆんたくはなかった。

でも、誰も来なかったベンチでは、いつのまにかサングァー(魔除け)づくりが始まっていた。


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「また来たら、今度は集まるかもね」

集落を案内してくれた地元の夫婦の声が、今もふと耳によみがえる。


この旅でいちばん深く、静かに心に残っているのは、そういう瞬間だった。

暮らしとは、たぶん、そういうものなのだ。


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